元広島監督・三村敏之氏が死去
2009年11月04日
元広島監督で楽天の編成部長を務めていた三村敏之さんが3日午前10時5分、心不全のため仙台市内の病院で死去した。61歳だった。今年は肝臓の手術を受けて療養するなど、体調はすぐれなかったが、10月29日のドラフト会議には出席。2日にも球団事務所に姿を見せていた中での急死だった。
秋季練習が始まったチームに悲しみが襲った。午後のKスタ。マウンドを囲むように選手が集められ、米田球団代表から三村さんの訃報(ふほう)が伝えられた。息を引き取った病院の方向に、ナインは1分間の黙とうを行った。
三村さんは67年に広島商から広島に入団。“赤ヘル旋風”が巻き起こった75年のリーグ初Vには正遊撃手として貢献。77、78年は不振に陥るが、79年には復活し、チーム初の日本一の一翼を担ってカムバック賞を受賞した。山本浩二、衣笠祥雄らスラッガーの脇を固めるいぶし銀の“脇役”としてチームを支えた。
引退後は広島でコーチ、2軍監督を歴任。94年から5年間、1軍監督として指揮を執り、野村謙二郎、前田智徳、金本知憲、江藤智ら若手を積極的に起用。4年連続でAクラス入りした。しかし、優勝には縁がなく、96年には長嶋巨人に11・5差を逆転される“メークドラマ”を許した。98年に退団するまで32年間、カープ一筋だったが、07年12月からは楽天の編成部長を務めていた。
三村さんは前日(2日)、コーチ会議に出席するため、球団事務所を訪問。「秋季練習に向けてどうしても参加したい」と話していたが、発熱しており、米田代表が静養を勧めた。仙台市内の自宅マンションに戻ったが、体調が悪化。病院に運ばれ、長女にみとられて亡くなった。
現役時代から紳士的で、女性ファンも多かった。朴とつとした人柄で誰からも愛された三村さん。今季、2位に躍進した楽天の編成担当を務めた功績も大きく、球界には突然の死を惜しむ声が相次いだ。
[スポーツ報知ニュース]より
広島一筋かと思っていましたが、現在は楽天の編成部長だったということは知りませんでした。山本・衣笠といった長距離砲の陰に隠れた地味な存在でしたが、玄人受けする味のあるプレーヤーでしたね。ご冥福をお祈りいたします。
秋季練習が始まったチームに悲しみが襲った。午後のKスタ。マウンドを囲むように選手が集められ、米田球団代表から三村さんの訃報(ふほう)が伝えられた。息を引き取った病院の方向に、ナインは1分間の黙とうを行った。
三村さんは67年に広島商から広島に入団。“赤ヘル旋風”が巻き起こった75年のリーグ初Vには正遊撃手として貢献。77、78年は不振に陥るが、79年には復活し、チーム初の日本一の一翼を担ってカムバック賞を受賞した。山本浩二、衣笠祥雄らスラッガーの脇を固めるいぶし銀の“脇役”としてチームを支えた。
引退後は広島でコーチ、2軍監督を歴任。94年から5年間、1軍監督として指揮を執り、野村謙二郎、前田智徳、金本知憲、江藤智ら若手を積極的に起用。4年連続でAクラス入りした。しかし、優勝には縁がなく、96年には長嶋巨人に11・5差を逆転される“メークドラマ”を許した。98年に退団するまで32年間、カープ一筋だったが、07年12月からは楽天の編成部長を務めていた。
三村さんは前日(2日)、コーチ会議に出席するため、球団事務所を訪問。「秋季練習に向けてどうしても参加したい」と話していたが、発熱しており、米田代表が静養を勧めた。仙台市内の自宅マンションに戻ったが、体調が悪化。病院に運ばれ、長女にみとられて亡くなった。
現役時代から紳士的で、女性ファンも多かった。朴とつとした人柄で誰からも愛された三村さん。今季、2位に躍進した楽天の編成担当を務めた功績も大きく、球界には突然の死を惜しむ声が相次いだ。
[スポーツ報知ニュース]より
広島一筋かと思っていましたが、現在は楽天の編成部長だったということは知りませんでした。山本・衣笠といった長距離砲の陰に隠れた地味な存在でしたが、玄人受けする味のあるプレーヤーでしたね。ご冥福をお祈りいたします。
Posted by koss at 09:41
│独り言


